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バレエ・リュス

  • 最終更新: 2017.04.22

■ セルゲイ・ディアギレフの生涯

ロシアと世界の情勢 ディアギレフ、バレエ・リュスの活動
1872 ノヴゴロドに生まれる
1877 白鳥の湖』初演
1890 ペテルブルグ大学入学、父親の破産
1892 大学卒業、作曲家の夢を諦める
1895 美術展を開催し始める
1898 『芸術世界』創刊
1899 帝室劇場の副支配人に(-1901)
1900 パリ万博
1904 日露戦争勃発(-1905) 『芸術世界』廃刊
1905 ロシア第一革命 「ロシア肖像画展」へニコライ2世来訪
1906 パリで大規模なロシア美術展開催
1907 パリ・オペラ座でロシア音楽祭開催
1908 ニジンスキーと出会う
1909 前身組織で公演「セゾン・リュス」
1911 バレエ・リュス結成
1913 春の祭典」初演、ニジンスキー解雇
1914 第一次世界大戦勃発(-1918)
1917 ロシア革命ニコライ2世が退位 「パラード」初演
1929 10月 世界恐慌 8月 ディアギレフ没

ディアギレフとバレエ・リュス | 大阪経大論集57(4) 間野嘉津子

# 生い立ち
# 芸術論の形成
  • 1890年、ペテルブルグ大学入学
    • ペテルブルグは当時のロシア唯一の芸術の都
    • 勉学よりも若い芸術家仲間との交流
    • オペラ、舞台、音楽会、絵画を鑑賞、仲間と芸術論を闘わせた
  • 1891年?、19歳のとき欧州旅行へ
  • 帰国後ペテルブルグ一等地に居を構える
    • 以後頻繁に西欧で芸術品の交流展示会を開催
    • ロシア国内ではサロンを主催、貴族社会での人脈を広げる
  • 1897年、ペテルブルグで美術展を開催、成功を収める
# 芸術活動
  • 1898年、芸術仲間とともに雑誌『芸術世界』を発刊
    • 参加者に美術評論家アレクサンドル・ブノワ、画家レオン・バクストら
    • 「美の崇拝と祝祭」を理念とする
    • 使命として、
      • フランスを中心とした西欧の新しい芸術運動(印象派象徴主義)のロシアへの輸入
      • ロシアの新進芸術家の作品の西欧への紹介
    • 西欧芸術の動向を伝える最初の重要なメディアに
      • 紙上で当時まだ無名だった印象派のマネ、モネ、ホイッスラー、ルノワールらの絵を紹介したことも
  • 1899年、皇帝の甥にあたるヴォルコンスキー公爵と出会う
  • 1900年、パリ万博を訪れ、のちの活動のヒントを得る

Diaghilev and the Ballets Russes | National Gallery of Art

# 生い立ち
  • ディアギレフの生家には詩人、劇作家、音楽家などが出入り
    • ゲストのためにコンサートやオペラ、演劇を披露した
  • 大学入学後まもなく父親が破産
    • ヨーロッパからの民主化と資本主義の波により家業が傾く
    • 専攻していた法学・司法業界でのキャリアを断念
  • タヴリーダ宮殿を会場としたロシア歴史肖像画展の開催に注力
    • 大盛況のうちに幕を閉じる
  • 1904年、日露戦争 → ロシア敗戦
    • 敗戦により借金を抱えたロシアは、フランスからの支援を目指す
    • 露仏関係強化のため、ロシア政府はパリにおけるロシア文化浸透を目的とするイベントの開催を推奨
  • 1908年、ディアギレフはパリでコンサートを開催
    • 当代きってのオペラ歌手、フョードル・シャリアピンを起用
    • 衣装はロシア中世文化のエキゾチックな魅力を印象付けるもの
    • フランスの聴衆を魅了した
# バレエ・リュス黎明期
  • 翌年、ロシアに戻ったディアギレフは短いバレエの創作に関心
    • バレエによってアート、音楽、ダンスをより密接に結び付けることができるのでは
  • 1909年、パリで初めてのバレエ公演
    • 作曲にミハイル・フォーキン、装置/衣装にレオン・バクスト
    • 参加した70名以上の帝室劇場所属ダンサーの中にはニジンスキーの姿も
    • 新しい時代のロシアを体現
    • ヨーロッパの観客には全てが目新しく、異国情緒溢れるものだった
  • 1910年6月、「シェヘラザード」初演
    • 官能的な表現は観た者の度肝を抜いた
    • 異文化への憧れを掻き立てる舞台装置に、斬新で大胆な衣装
    • パリだけでなくヨーロッパ中が夢中に
      • 当時「ファッションの王様」と呼ばれていたポール・ポワレも影響を受け、オリエンタルな雰囲気のコレクションを発表
      • VOGUEにはターバンやハーレムパンツが
      • シェヘラザード風の衣装を着て集まるパーティーが女性の間で流行
  • 1912年、「牧神の午後」初演
    • ステファヌ・マラルメによる同名の詩を題材
    • 振付/主演ニジンスキー、装置/衣装バクスト、作曲にはドビュッシーを据えた
    • それまでの常識を覆す振付
      • バレエに付きものだった美しくて優雅で上品な動きとは程遠い
      • 動物のように踊るよう指導されたダンサーたちからは苦情も
  • 1913年5月、「春の祭典」初演
    • バレエ・リュスの歴史のなかで最も激しい物議を醸した作品
    • ストラヴィンスキーによる音楽は20世紀の音楽に革命を起こした
    • ニジンスキーの振付を、「有史以前に作られたロボットはカクカク動いているよう」とする評論家も
      • 一方で、支離滅裂に思える動きをポスト印象派キュビズム的な表現と見る向きもあった
    • 初日にはディアギレフの目論見通り、大きな騒動が巻き起こった
      • 敢えて対立派閥に属するアーティストや評論家たちで会場を満たすよう画策
      • クラシックの代表的な演目ラ・シルフィードのあとの上演だった
      • ショパンの優しい調べとは全く対照的な、バレエとしてかつてないほど大規模なオーケストラによる演奏
    • ディアギレフが振付、ダンス、音楽による新しい表現の模索にどれほど意欲的に取り組んでいたかを示す作品
  • 今やバレエ・リュスはパリのアヴァンギャルドを象徴するものに
  • 1903年、ディアギレフがニジンスキーを解雇
    • 8月の南米公演中にニジンスキーが同僚のバレリーナと結婚したことが原因
    • 裏切られたと感じたディアギレフは怒り、深く傷付いた
# 第一次世界大戦
  • 戦時下においても、規模を抑えた状態でバレエ団は南北アメリカをまわって公演を続けた
    • 大都市だけでなく、ヨーロッパの本格バレエがほとんど訪れないような都市まで
    • ニジンスキーもゲストダンサーとして公演に参加
  • ディアギレフはヨーロッパのアヴァンギャルドを代表する芸術家たちの協力を得るように
  • 1917年、「パラード」初演
    • ジャン・コクトーが台本、レオニード・マシーンが振付/主演、エリック・サティが作曲、装置/衣装をパブロ・ピカソが担当した
    • 全てにおいて時代を反映した現代的なものだった
      • パリの道端の客寄せを題材にした台本
      • 当時人気の女優をモデルにしたキャラクター
      • タイプライターを叩く音などを取り入れたサティの音楽
# モダニズム
  • バレエの題材は神話やおとぎ話から現代的なモチーフへ
  • 「青列車」初演
    • パリとリヴィエラコート・ダジュール)を結ぶ夜行列車の名前から
    • 典型的なリゾート地をイメージしながら、キュビズム的な建物を配したセット
    • 衣装はココ・シャネルに依頼
    • 当時流行していたスポーツやレジャーを取り入れたブロニスラヴァ・ニジンスカの振付
    • 緞帳にはピカソによる絵が
  • 1924年ジョージ・バランシンサンクトペテルブルグから合流
    • バレエ・リュス歴代最後の振付家
  • 1929年8月、20世紀の総合芸術であるバレエの礎を築いたディアギレフがヴェネツィアで死去
    • バレエ・リュス発足後、ついにロシアへ帰ることが叶わなかった
    • 死後、団員により彼の創造したバレエが世界各地で広められた
# ニジンスキーについて
  • 長くてしっかりとした首に長い胴体、やや短い足
    • バレエダンサーに良しとされた体型とは言えなかった
  • バレエ・リュス解雇と前後して、ニジンスキーは重篤な統合失調症の症状を見せるように
    • 以後、入退院を繰り返した末、最終的にバレエの道から離れざるを得なくなる
# ストラヴィンスキーについて
  • ストラヴィンスキーは音を幾重にも重ねることで感情に訴える曲を可能にした
    • 春の祭典」は実はロシアの伝統音楽の延長線上にある
    • 不協和音や変則的なリズム構成を取り除けば、核にあるのはロシア民謡そのままのメロディー
    • 1913年という時代を考えれば早すぎるほど先を行く音楽だった

The Protean Master of the Ballets Russes | The New York Times

# ディアギレフと家族
  • ロシア西部のペルミに生まれる
  • 家族との関係
    • ロシアを離れてからも頻繁に連絡を取ろうとしていた形跡が
    • 特に継母との関係は良好で、彼女へ宛てた手紙が多く残る
    • 弟ヴァレンティン
      • 1929年、ディアギレフの死から3週間後、ソ連強制収容所で処刑される
      • ヴァレンティンが行方不明になったことをディアギレフが知ったのは1927年後半
      • 生前ディアギレフはフランス外務省に対しヴァレンティンの身柄保護を強く要請
      • ディアギレフの死を知ったソ連政府によりヴァレンティンの処刑が執行される

■ バレエ・リュスの活動

Diaghilev and the Ballets Russes | Victoria and Albert Museum

第一次世界大戦下の芸術運動 : ディアギレフ・バレエの場合 | 北星学園女子短期大学紀要20 佐藤俊子

# 戦時下での準備
  • ディアギレフは1914-1915年にかけての冬をローマで過ごした
  • 戦争の南下にともない1915年春にはスイスのローザンヌ
    • 引き続きストラヴィンスキーに、マシーン、バクストらも帯同
    • 5月にはロシアからグリゴリエフも合流
      • すぐにアメリカ公演に向けて準備を開始
      • グリゴリエフはロシアに戻り、ダンサー探しに奔走
        • 戦時下に長期移動を伴う公演のためダンサー探しは難航
        • 同様の理由から、ロシアに戻っていたフォーキンもアメリカ公演不参加に
        • 当時ヨーロッパでバレエは死んだ芸術であり、有能なダンサーも望めなかった
    • 12月、グリゴリエフはスイスへ再度合流
    • 同月、ジュネーブとパリでバレエ団の17ヶ月ぶりの公演を成功させた
    • 演目にはフォーキンの後継マシーンのデビュー作『夜の太陽』を含む
# アメリカ公演
  • 当時のアメリカは、
    • まだ戦火は及んでいなかった
    • 開拓時代がひと段落ついて文化を受け入れる余裕も出てきた頃
    • 欧州へのコンプレックスも手伝って、文化芸術の輸入が盛ん
  • 1916年1月12日ニューヨーク到着、1月17日アメリカ公演初日
  • 4月7日、ニジンスキーの釈放が叶い、ようやく一行に合流
    • 抑留中に語った言葉の通り、ブランクを感じさせない踊りだった
      • 「ぼくは自分の魂の中に自分の芸術を持っている。何ものも、だれも、それを奪い取ることはできない。」
  • ニジンスキーとディアギレフ/バレエ団との関係は悪化
  • 春の北米公演を終えたディアギレフら主要メンバーはスペインへ
  • 秋の北米公演(1916年10月16日-1917年02月24日)
  • 1917年初演の『パラード』は新時代を告げる作品に
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